見たものを撮るようにしている

わたしは「オッ」と思って目を向けたものを撮るようにしている。
写真を撮るのが好きになってからずっとその思いはあるのだが、最近、改めてそれで良いんだと思った。

カフェで上向いたら、オッ 照明が鏡になってるじゃん!で、動きたくないから座りながら怠惰に撮った自分(髪、プリンやばい)
FUJIFILM XE-5 + XF35mm F1.4 R

写真のことを勉強するたびに、豊かな気分になると同時に、ちょっとだけ抑圧的な気持ちにもなっていた。

ちゃんとした写真撮らなきゃいけないんだろうな。
変なものは写真と呼べないんだろうな。
というふうに、少し恐れて、もっともっと知識を入れれば安心と思っていた。
旅行嫌いなのに、旅行にわざわざ行ってヨーロッパの街並みとか撮らないといけないのかなぁ、なんて思ってた。

正解の撮り方も、いい写真の法則もあるのかもしれない。

でももともとは、自分の興味や感動が発生した瞬間を記録したいという衝動があるだけなのだった。
写真を見た人に何か伝えたいことがあるわけでもない。

「オッ」と思ったものはつまり、自分が日頃生きている中で「興味を惹かれて目を向けたもの」である。
「オッ」と思わないものを人はあまり見ない。それぞれ、自分が関心を持ったものを選択的に見ている。
だから、「見たもの」を撮っているわけである。

「オッ」て思ったものだけ撮りたいし、わたしはそれしか撮れない。

オッ 絶滅したと思っていた公衆電話じゃん、
いやそれよりグズマニア(この植木)ってこんな暗くて乾いたところでもきれいに育つんだ?で撮った写真
FUJIFILM XE-5 + XF35mm F1.4 R


以下、めっちゃ妄想なんですけれども。

わたしは人間が存在する理由の一説として、次のような考え方をわりと本気半分、面白半分に採用してるんですよ。

人間が存在する理由は、

  • 各々の人間が「記録デバイス」として現実具体の肉体を纏ってこの惑星に降り立ち、
  • その各々の物理的に制限された視点から、地球(物体)と人生(時間)を観測するためにある。

個々の感覚器官の個体差や、興味や嗜好、価値観や観念による解釈の違いがあるから、それゆえひとつとして同じ観測にはならない。

そして、死後にそれを持ち帰る。

この世界がどうなっているのか。
生きてるってなんなんだ。
悲しいってなんなんだ。
美しいってなんなんだ。
ということを、ひとつぶひとつぶの人間の意識が発見し、観察し、解釈する。そうやって構築された観測データが死後に集められる。
そして、宇宙という大きなデータベースの一部としていかされる。

何もろくに向き合わなかったわ、というのも、立派なひとつの在り方であり、そのケースの観測記録である。
我々はひとりひとりが宇宙を観測する存在なのである。
みたいな。
妄想ですよ。

で、あればですよ、「みんな違って、みんないい」のではなく、「ひとりひとりが異ならなければ、存在する意味がない」とまで言えるんではないかと思った。
多様性をどうにか頑張って認め合って行こうぜ、とか、目立つ個性やオリジナリティを持たないと!という話ではない気がする。

観測結果が同じだったら、別の個体である意味がなくなってしまう。
それに逆に言えば、別の個体である以上、まったく同じ観測結果になることもあり得ない。

小伝馬町の飲食店のある道端にとてもいいライムが落ちていたので「オッ」となった。
ぷりぷりパツパツで果汁たっぷりな感じする。このあと歩道によけておいた。帰れたかな。
RICOH GR IIIx

絶妙に違う立ち位置、絶妙に異なる価値観を持つ大量の観測デバイスがあることで、多角的で豊かで緻密なデータがとれるのだ。
そういう意味では、個々はどこまでいっても明確に代替不可能である。

だから、無理して完全一致する必要もないし、無理して周りと大きく異なる者になろうとする必要もない。
「あるがままでよい」というのが、本当にそうなのかも、という気がしてくる。
(傍若無人でよいという意味ではなく、社会を運営する構成員の1人として、利他的で無害に居られた方がよいよねというのは別の話だが)

そう考えると、別に写真に撮るかどうかは重要ではない。
「オッ」と思って何かに目を向けた時点で、それはもうその人の観測結果である。
写真に撮らなくても、自分の目というカメラで見て、勝手に感じたり考えたりしている。それで十分観測している。
さらに、わたしはそれをわざわざ撮って記録するのが楽しいだけ。

あなたが「オッ」と思ったものが宇宙には重要だ。それを大事にしよう。