会社員を辞め、丸1年休んだのちに週3稼働のフリーランスになった話

2022年4月から2023年3月まで、丸1年労働を止めてみました。プチニートです。
この記事はその時の過ごし方や、働き方について考えたことなどの記録です。
いつものお気楽な趣味ネタとはちょっと雰囲気違うし、文章ばかりで長めですが、できるだけ端的に書きました。適当に読んだり読まなかったりしてください。

会社員を辞めたこと

わたしの属するIT業界の文化的に、転職がネガティブに捉えられることはほとんどありません。わたし自身もいろんな経験をすることを望み、いままで複数回転職をしてきました。前職で4社目です。だから前職が嫌とかではなく、きっと今のこのタイミングならどの会社にいても同じ決断をしたと言えるでしょう。

わりとどんな小さなことでも、必要な人生の課題は必要なタイミングで降ってくると思っています。
だから、各社それぞれ、そこで働いたことは本当に良い経験だったと納得しています。その経歴を信頼して仕事を任せてくれる人もいるし、その時の同僚たちが長く付き合える友人となった。 こういうお断り文章的な書き出しに辟易されてしまうかもだけど、この考えはポジショントークではなく、率直な思いです。

ただ一方で、組織に属するためにやらねばいけないさまざまなこと(ヒエラルキー、人事評価、目標設定、政治的な動き、風通しの悪さ、会社のイベントなど)が肌に合わず苦手に思っていました。今後できるだけ最小限に減らしたい。
税金の計算も、払わねばならないのなら天引きではなく、自分で計算して管理したいと思っていた。

もちろん組織のメリットなどは理解していますが、単に、そのシステムに、個人が相性がいいかどうかの話です。労働組織も人間が作り出したツールの1つだと考えると、まあそれに合わない人もいるよね、たまたま自分がそれだったかも。という感じ。

目の前の他者に対して敬意と配慮があれば、基本的には仕事というのは大丈夫だと思っています。

なぜ休んだか

満足いくまで休みたい

病的ではないのですが、もともとそんなに頑張れる方ではないし、学生生活も苦手でした。そのため、組織のいろいろをこなしながら週5で働き(副業もやり)、生活もする、ということをやる日々に対し、気力が枯渇しました。自分を十分に休ませたかった。

土日や長期休暇では少し短いと感じ、数ヶ月でも中途半端だから、1年くらい停止したい。
「明日月曜か…」「土日が終わるのがつらい…」などと思わずに、自分にのんびり過ごさせてみたら一体何を考えどうなるのか。それを見てみたかった。

自分に合う働き方をゆっくり考えたい

さらに、時間がかかりそうなテーマについて考えたいと思っていました。
今後人生死ぬまで何かしら社会と(主に仕事で)関わっていくにあたって、自分に合う働き方やあり方を考え、その環境を整えるのに十分な時間が欲しいと思ったから。

自分のイヤじゃないことを自分に無理のないペースでやっていくにはどうしたらいいか。それを考えたかったのです。

お金周りはどうしたか

自分のお金で自分のために自由な休みを与えたい

夫婦2人で暮らしていますが、休み中は夫に金銭的に頼らず、自分の貯蓄でやりくりしました。

変な話、パワーバランスが崩れて、買い物が後ろめたくなったり、へりくだるようになることは面倒なので避けたいと思った。
そんなのは夫婦として冷たい、と言われそうだけど、そういうわけではなくて。こだわりの強いわたしが自分の心を保つために、自分の意地のために好きこのんでそうしたかったというだけです。

投資は崩さず、自分の現金でどうにか

労働を年単位で一旦辞めたいと夫に打ち明けたときに、収支の試算を求められたので、スプレッドシートに毎月の支出予定などのシミュレーションを作り、安心させるために夫に見せた。
そのとき自分が個人口座で管理していた貯蓄・投資分の総額が、収入が絶えたとしても丸2年は休める計算でした。

とはいえ、投資分はそのまま残しておきたいので、現金を切り崩すのみとし、休めるのは余裕をみて丸1年ということにした。
1年経ってみてどうしても延長したいとしても、投資分を崩せばいいし心配いらないよと自分に保険的に言ってやりたかった。子はいないのである程度自由が効いた。

支出計算というのは、
・住宅ローン支払い自分の分
・食費・水道光熱費の折半
・自分の趣味の購入やカード払いなど
を、働いていた時と同じように、払っていくだけの毎月の額ということです。

自分にのびのび好き勝手させてみるために休むのに、カツカツ節約しないといけないというのは、心が窮屈でのんびりできない。それは休む意味がないと思った。なので、収入はなくても我慢せずに好きなものを食べたり買ったりすることは引き続き自分に許可していました。

これは、一生懸命働いて貯金をしていた過去の自分に感謝しかない。

どう過ごしていたか

  • 2022年4〜8月:毎日本読んで散歩してた以外なんの記憶もない
  • 9〜12月:スプラトゥーン3が発売されたためゲーム三昧。オンライン絵画ネイル教室
  • 2022年1〜3月:急に思い立ってオーダーネイルチップショップと法人をつくる

代表的な1日はこんな感じだったか。

  • 6:00 朝型なので自然と起きる。湾岸エリアなので海沿いを散歩しにいく。6kmで1時間ちょっと。
  • 7:30 シャワーで汗を流して、本を読むか二度寝
  • 9:00 在宅勤務夫が起きてくるので、猫も起こしてご飯をあげる
  • 午前中:図書館に行って借りてた本を返したり、予約本をピックアップしたり雑誌を眺めたり。そのまま駅前のモールをふらつき、コーヒー屋に行ったりする。昼食と夕食の買い物をして帰る
  • 午後〜夕方:本を読む、ブログを書く、スプラトゥーンする、絵画ネイル教室の課題を進める、DIYする、ジェルネイルする、掃除するなど気分でいろいろ
  • :ご飯食べて、入浴し、午後やってたことの続きをする
  • 0:00 寝る

スプラトゥーン3にハマりすぎて、スプラトゥーンに精神を支えられたと言っても過言ではないくらい。
ちゃんと上手になるために、動画を見て研究したり、ゲーム中の自分の立ち回りを録画して振り返ったりして、すごい真面目にやってた。ゲームが下手だったけど、特訓してキャラコンスキルを得たことは今後も別のゲームで役立つし、楽器を一つ習得したような達成感があった。

あと、ゲーム(テトリス)をするとPTSD(わたしはそれではないけど)が軽減する話思い出してしまう。視覚情報に溺れて脳がその処理に忙しくすることによって、嫌なことが脳内に定着する余地がないのだと思う。

体調とか

身体

慢性的な胃の不調なくなる

会社を退職したら、学生時代から繰り返してた逆流性食道炎と慢性的な胃痛がパタリと出なくなった。
フリーランスとして働き始めても、逆流性食道炎と胃痛は再発しませんでした。
胃が痛くないのでご飯がおいしいし、ちゃんと消化できてる感じでお腹が気持ちいい。

慢性的な頭痛なくなる

幼少期から偏頭痛持ちで、ほぼ毎日ズキズキガンガンして困っていたのですが、月に1回くらいしか痛まなくなりました。
胃と頭痛がきれいにストレス起因すぎて、わかりやすすぎて面白い。

ちょっと痩せる

また、今まではストレスの吐口が美味しいものを食べることでもあったため、太りやすい体質だったのですが、労働しなくてよくなり精神的な負荷が減ったら、食べすぎてしまうことも減り、休み始めて4ヶ月くらいで自然と5,6kg痩せました。

心・精神

プレッシャーが薄まる

フリーランスになったら、月曜日が憂鬱とか、他者と段取りよく会話するのにめちゃくちゃ体力をつかうとか、あとひと踏ん張りの気力がないとか、そういうプレッシャーや焦りがあまりなくなった。
本当に疲れて参ってるときは、同僚に簡単な質問をするために話しかけるということだけで億劫で身体がガチガチになっていたが、そういういうことがあまりなくなりました。

もともと無駄に力んでしまう性格のようだ

ところで、夫や周りの同僚などの証言と比較すると、わたしは仕事に向き合うことに変に緊張しすぎるところがあるらしい。

いつも見張られて裁かれるみたいな恐れを持っているようで、勝手に力を入れてる性格であるようです。だから自分は余計に疲れるんだなーと思った。
これは、誰が悪いでもなく、自分で勝手にそうなってることで、そういうふうに、自動的に燃費が悪いという点で「体質」とか「性質」という言葉で表している。

たとえば、身近な例で夫を見てると、常にもっと力が抜けている。真面目にやりつつも、毎日気楽そうにやってる。
でも、たまたまわたしの今世の乗り物(身体機能や思考癖など)がそういう車種だとか性質だっただけだと思ってる。しょうがないです。それらを現象として淡々と捉えて、そんな性質に合うものを探していくしかなさそう。

読書が子どもの頃から好きなのもあり、心理学や精神分析、社会学などの分野の本をたくさん読んできました。その影響か、自分自身を
「人間の群れの単なる個体としてシムシティみたいに眺めてる」
「社会がうにょうにょ動くアメーバで、自分はそのアメーバのはじっこの一部」
と捉えて、観察するスタンスで生活している視点があって、
できるだけニュートラルに自己認知をした末、その個体の性質を前提に自分にとっての「働く」を組み立てていくしかないなと理解しました。

再始動にあたって

個人事業主(フリーランス)になる

もともと会社員の頃から個人事業主として副業をしていたので、そのまま副業を広げるような形で、フリーランス一本にすることにしました。
専門分野も今まで同様、WebやアプリケーションなどのIT業界で、UXデザインやUIデザインと呼ばれているところ。

フリーランスになってもフリーランスの苦労は当然あるだろうが、組織に属して会社員でいることと、フリーランスを天秤にかけたときに、より自分という乗り物に負荷をかけずに長く動けそうなのは、フリーランスだなと思った。

主に、今後の収入源のほとんどはここからになります。

作家活動をするための法人を作る

また同時に、作家業をやるための法人をつくりました。
作家というのは文筆ではなく、アーティストとか造形作家とかハンドメイド作家とかの方のことです。

幸い、創業の手続きや、自力の経理などは苦に思わないタイプだった。先にも書きましたが、どうせ引かれるなら税金の計算は自分でやりたい。

なぜ法人を作ったか

法人を作ろうと思ったのは、自分の中で生き方のスタンスを明らかにして、覚悟をもって向き合うためです。

生き方のスタンスについては、いままで自分は組織に属することやこの社会そのものにある「常識」と少し相容れない部分があると感じることが多かったが、やりたいことや望む生き方を殺すことなく、「社会の仕組み」(=法人を作ること)をうまく利用しそこに接続させていけば、それで生きづらい社会とも自分なりの折り合いが公的にもつくと考えた。

また、作家として何か作ったり、芸術や工芸に触れていたいという気持ちが昔からあったので、それを本心でやっていくぞという覚悟の表明です。人生をかけて、細く長く芸術に触れていたい。

作家で立派に食って行ってる長い付き合いの友人の姿を見て、自分はこうなりたかったのだということに気づいたのもあります。
わたしの会社は、稼ぐために存在する会社じゃない。でも、稼ぐために存在するわけじゃない会社があってもいいじゃんというちょっとしたアンチテーゼみたいな気持ち。

あとは、フリーランスでやってること(デジタルプロダクト系のデザイナー)とは事業内容が異なるので、単に分けるために会社を作ったという税務処理的なのも理由の1つにある。

自分に合った労働ってなんだろう

週5はわたしにとって働きすぎだった

自分に合った労働スタイルを組み立てていくにあたって、まずわたしにとって週5は働きすぎだと思った。
毎日、労働と家事と自分のことだけでヘトヘトである。
夫の支えがあってもヘロヘロだし、子の世話などできそうにない。
ちゃんと学校行って、就職して、週5で働いて、結婚して子がいて、老後の貯蓄して、みたいな普通の像を、ちゃんと実現しないといけないんだと思い込んでいた。

考えると、わくわくしながら集中してテキパキ働けるのは3日くらいだと思った。

ということで、働くのと休むののバランスを考えると、 週3,4日間、業務委託契約で事業会社1社と、友人の事業を1件手伝い、 他の週3,4日間は、自分のやりたいことや制作や家事をする時間にするというペースをつくってみた。

心の安息のために本を読んだり家を整えたりのんびり過ごしたい反面、専門的な職種で経験を積みたいし、自分が何かを提供できる場で役に立ちたい。また一方で、ただ美しいものを自分だけの裁量で無心で作るという活動もしたい。

人に頼まれた仕事(業務委託)

自分がやりたい活動(作家活動)

休み

人に頼まれた仕事(業務委託)


というサイクルが自分にハマり、 ちゃんと休めることで精神・体力の回復も十分できるし、仕事にもぐっと力を入れられるし、飽きづらい。という状態にできた。
今までやってきたデザイナーというスキルも捨てずに伸ばしていけるし、総合的に幸福度が高くて充実している。

フリーランス、そんなに浅く使い捨ての世界ではなかった

UXデザイナーであることは、本来事業のコアな部分を理解して議論できるような知識量・練度の立場であることが理想ですが、業務委託だと事業に対して表面的な動きになってしまうのではと、多少心配はあった。が、いらぬ心配だった。

会社のスタイルもあると思うので、合いそうなところを見つけるしかないですが。

契約形態が違うだけで、苦手だった組織づくりの方にはあまり関わることがなくなり、事業内容に集中できる感じで動けている。

それに、よくあるイメージであったほどフリーランスが激務で蔑ろにされがちと感じない。それは、UXデザイナーというのがある程度は事業やサービスの核となる部分に関与する度合いが濃く、一員として大事にしてもらいやすい立場だというのがたまたまあったからだと思います。ありがたい話。

家事も育児も仕事もやっていつも精力的にいられる人と比較すると、自分はだいぶヘボいのだが、今まで生きてきて自分を観察した上で、もうこういう個体なんだから仕方ない。合うものを見つけていくしかない。と思った。

収入面で見ると、わたしは特段高級な単価の人材でもないが、意外と週5会社員時代と比較しても申し分なかった点は予想外で驚いた。
この金額で喜んでても、まぁあとで納税して引かれるんだけど、そこは自分で計算して目の当たりにできるのはよい。

ブランクって意外と無い

さらに、個人的な体験からの感想ですが、長期間休んだブランクとかは大丈夫でした。

※昨年→2022年、今年→2023年

Figma(UIデザインのソフトウェア)の操作や、パソコンのショートカットとかは時間が空いても手が覚えてるんだなー 積み重ねた訓練は自分を支えるなぁとか思った。

向こう側に人間が〈いる〉仕事を、自分の場で作りたい

と、思いつつ、なにか最前線でガシガシやっている訳ではないのですが。

時間や気力を切り売りするような労働を前提とする社会に対して、学生の頃から違和感を持っていました。
ここでそれについて語ると長いので省きますが、もし、経済効果のために何かが傷ついても、誰かをミスリードしても、良心が不感になっても構わない、ということは絶対にしたくなかった。

売って捨てられるだけではないものがつくりたいし、向こう側に人間をちゃんと感じるような仕事がしたい。そのためには、自分自身が日々忙殺されず、行動に心を込める元気や余裕がないとできないと思った。フリーランスデザイナーでも、作家でも。

(後述する本がそれをうまく説明していて、とてもいい時期にとてもいい本に出会ってしまったと思った)

おしまい

あなたが恵まれててラッキーだっただけでしょって言われちゃいそうですが、この個体としてでしか生きて経験したことがないのでご勘弁ください。

いろいろ人間がいる中の一視点からの報告のようなおしゃべりでした。

最近たまたま読んだ本がよかった

この本読んで、自分がうまく言語化できなかったことがとてもクリアに書かれていたのでびっくりしてしまいました。多忙で自分を見失いそうになった時、仕事や生きることってこれでいいんだっけと思ったときに定期的に読み返したい。

持たない幸福論 / pha

引用

生きるにおいて本当に大事なことは何かというと、「一人で孤立せずに社会や他人との 繫がりを持ち続けること」と「自分が何を好きか、何をしているときに一番充実や幸せを感じられるかをちゃんと把握すること」の二つだと僕は思う。
体はものを感じたり考えたりするベースであり、危険を察知するアンテナだ。体調が悪くて体が危険信号を発してるのにそれを精神でねじ伏せて頑張ったりしてはいけない。そういうことをしているとそのうち倒れる。自分が楽にいられる感じで好きなことをやっているのが一番いい。
「幸せ」とか「意味」を感じられる手がかりになりそうなものはなんでもいいから利用して自分がうまく生きられる世界を作り上げればいい。
昔は「四十年間働いてその後二十年間休む」みたいな人生計画を持つ人が多かった。でも今は昔ほど会社というシステムが頼りにならないし、同じ仕事で安定して四十年も働けるかどうか怪しい時代だ。だったら「四十年間働いてその後二十年間休む」という時間軸に沿って縦に積み上げた時間配分を横に倒して、「四年働いて二年休む」を繰り返していくとか、「週に三日半働いて三日半休む」を繰り返していくとか、そういう風にするのもありじゃないか、という主張だ。僕もそれはすごくいいんじゃないかと思う。

自分をいかして生きる / 西村 佳哲

引用

〈考え方や価値観〉のさらに下には、〈あり方や存在〉とでもいう階層があると思う。 どんなふうに働いているか。どんなふうに生きているか。毎日の暮らしの中でどのような呼吸をして、食べ、眠り。なにを倍じ、恐れ。話したり、聴いたり。ほかの人々や自分自身と、どんな関わりを持って生きているかということ。 〈あり方〉とは生に対する態度や姿勢で、そこに自分の〈存在〉が姿をあらわす。
〈考え方や価値観〉のさらに下には、〈あり方や存在〉とでもいう階層があると思う。 どんなふうに働いているか。どんなふうに生きているか。毎日の暮らしの中でどのような呼吸をして、食べ、眠り。なにを倍じ、恐れ。話したり、聴いたり。ほかの人々や自分自身と、どんな関わりを持って生きているかということ。 〈あり方〉とは生に対する態度や姿勢で、そこに自分の〈存在〉が姿をあらわす。
美味しそうなのに、食べても満たされないもの。立派に見えるのに、どこかごまかされている感じがするもの。人はこうした、正体が不明で一致感の低いものに触れつづけると、心のどこかにあるスイッチがパチンとOFFになって、起きているけど眠っているような散漫な印象を示し始めるように見える。 そしてその「こんなもんでいいでしょ」という感覚の中で行われた仕事は、同じ感覚を人にうつす。ある人間のへ〈あり方〉が、仕事を通じて他の人にも伝播してゆく。
「いい仕事」とは、いったいどんなことを指すのか。 これはなかなか言葉に出来ずにいた。今はこう思う。僕が魅力を感じ、満足を覚えるのは、「いる」感じがする仕事である。 「いる・いない」は、「上手・下手」じゃない。美味しいに越したことはないが、極端な話、不味くても「いい!」と思える店もある。 そしてそんな仕事に触れている時、自分は元気になっている感覚があるのだった。
自分が感じていることを感じようとしないで、外側の要求にばかり対応している人の姿には、どこか寂しさがある。それはその人の内面における、本人と本人自身の関係性から生じているのだと思う。
大学の授業で学生たちに仕事の一部を見せると、「やりたいことをやって食べていけるんですか?」という質問に出会うことがある。仕事とはやりたくないことを我慢してやることだと考えている学生の数は、年々増えているようだ。そういう大人たちの姿を見て育ってきたのだろう。 しかしこの世界は、「自分がやりたいこと」をやる場でも、「社会から求められること」に応える場でもない。そのどちらか片方じゃない

読みやすい本ばかりだし、生き方を考える助けにもなると思うので、よかったら読んでみてください。
phaさんと西村 佳哲さんの本はぜんぶ良いです。